1月12日の読売新聞の一面に「大和王権の鉄器工房」発見という5世紀初頭の遺跡発掘の記事が掲載された。この発見は古代史を読み解く上で大きな成果であると思われる。今日はこの記事の紹介と共にそこから明らかになった歴史的可能性を提起してみたい。
まずは読売新聞からの記事紹介をさせていただきます。
>大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶工房跡が、市分化財協会の調査で出土した。百舌鳥・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を築いた「倭の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。
工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建てられていたとみられる。1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝を設け、排水などに利用。溝からは、製造過程で出た3センチ規模の鉄さいも発見された。含まれる炭素が少ないことなどから、高温で加熱して繰り返し折り曲げる方法で製造したらしい。百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3〜4世紀)などでも同様の溝が確認されており、同協会は「朝鮮半島の渡来人がもたらした先端技術を駆使して生産したのだろう」としている。
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>「倭の五王」の時代に鉄器を生産していた鍛冶工房跡が確認された大阪市平野区の長原遺跡。同時期の古墳からは大量の鉄器が出土しているが、これまでどこで生産されたのかは不明だった。今回の発見は、鉄器生産の歴史を解明する手がかりになりそうだ。
鉄器は弥生時代中期、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされ、この頃の福岡県春日市の赤井手遺跡では鍛冶遺構が見つかっている。以降、小規模な生産が続いていたが、大阪府藤井寺市の野中古墳など5世紀の古墳に大量に副葬されるようになり、大規模生産が始まったと考えられている。
しかし、これまで近畿最古の鉄器生産遺構とされてきたのは同府柏原市の大県(おおがた)遺跡(6世紀末)で、5世紀の鉄器生産の実態はわかっていなかった。白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「鉄器生産は当時最も重要な技術。大和王権と遺跡のかかわりが明確になった意義は大きい」と評価する。
日本書紀には、「五王」の一人とされる仁徳天皇が現在の大阪府内に水路や堤を築いたと記される。今回発見された工房で生産された鉄器がこうした土木工事に使用された可能性が高く、工房が大和王権の軍事、経済活動を支えていたことがうかがえる。
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【今回の発掘から伺える史実】
@大和王朝の鉄器生産が5世紀には大掛かりに行われている事があきらかになった。これまでは鉄器生産遺構は6世紀末でこの発見により200年早まった。⇒大和は5世紀には鉄器生産をもって九州から完全に独立していたことが伺える。併せて鉄の資源は出雲地方から入手していたのではないか?
A鉄器工房は方墳の上に作られている。⇒これは何を示しているか?
鉄器生産が神聖な祭祀行為として扱われていた事を表す?
若しくはその前の王朝の古墳跡に作ることで、征服を意味し、激しい勢力交代があったのかもしれない。〜私は後者のように思う。
B鉄器工房が百済の遺跡と同様の溝を有していた。⇒5世紀前半の大和王権(応神ー雄略朝)が百済と繋がっている事が伺える。或いは百済人そのものかもしれない。
★475年に百済では高句麗の攻撃を受け、熊津に遷都している。この時期多くの百済人が渡来している。一つの仮説であるが、背走した百済人がそのまま大和に潜入し、鉄器技術を持って大和で勢力を拡大した・・・それが古墳の巨大化へ という構図が見えてくる。
※いずれにしても不明点が多い5世紀を読み解く上で今回の鉄器生産の証拠は有力な史料になると思う。 |
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