>今や、「構造認識」は統合階級(学者や官僚やマスコミ)の商売道具として残存しているに過ぎない。18718
このネットにおいて、統合階級としての知識人がこれだけ否定されている中で、知識人の言葉を引用するのは甚だ心苦しいのですが、たまたま今読んでいる本の中で、ハッとさせられる箇所にぶつかったので引用させていただきます。
>いいことを考えて、いいことを書いて発表すればそれで済むと思っているんですが、いくらいいことを考えついても、それにふさわしい、あるいはそれを超えた表象能力がともなわないと駄目なんです。研究というのはそこまでいかないと駄目だ、ということが日本の大学の研究者に欠けている・・。蓮実重彦「映画狂人、語る。〜村上龍との対談において〜」
中身が全て、実践が全て―。私は、このことを長い間信奉してきましたが、それって実は、一番やっかいなこと(認識の構造化→明快な言語化)を忌避する隠れ蓑にしてたにすぎなかったのではないかと思っています。あるいは、中身とか実践は決して「全て」ではなく、全体の一部に過ぎないのではないかと。「私はやることやってるから」を免罪符としていたのでは、いつまでたっても何も変わらないし、自己満足を垂れ流しているにすぎないんだって気づきました。
普通の人も、今まで大切に自分の中で温存してきた何かをぶった切る必要があるのではないか?言い換えれば、それが、既成観念の全的否定ってことなのかなって思いますが、いかがでしょうか? |
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