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百済の歴史(天皇家は百済の王族そのものでは?) |
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( 48 兵庫 設計業 ) |
08/10/08 PM00 【】 |
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新羅の次に百済の歴史も見ていきたい。
【百済の始祖は高句麗と同系?】
百済は伝説によれば紀元前18年に建国した。始祖の温祚王は、北夫余から逃れ卒本(中国桓仁)にいた趨牟(朱蒙=高句麗始祖)の子だという。温祚たちは南の肥沃な地へ逃れ、弟の沸流は仁川で、温祚は河南慰礼城に生活して国名を「十済」としたという。高句麗と同系と言うことを強調している。
【百済は建国と同時に高句麗と対峙】
実際は国としてまとまったのは4世紀前後といわれる。3世紀半には朝鮮半島西南部に馬韓が50カ国あったが、百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて力を強めたと考えられる。国政には帯方郡の中国人も関与していたようである。帯方郡の消滅とともに高句麗と直接対峙するようになった。
近仇首王(375-384)は平壌まで攻め入り、高句麗故国原王を殺した(371年)。その一方、加やに進出して親交を結ぶとともに、太子の時代(近肖古王(346-375)のとき)に倭へ七支刀を送った。それ以外にも大陸の文化を倭国に積極的に伝えた。千字文などの文字を伝えたとされる王仁もこの時期の人である。
【百済は倭、東晋と結びつき、高句麗、新羅と対抗】
高句麗、新羅が前秦(北朝)と結びついたのに対抗して、百済は東晋(南朝)や倭と結びついた。そのため中国南朝の影響が強く、384年に東晋から仏教が伝わった。396年には高句麗の広開土王の侵攻によって打撃を受けた。そのため阿かん王(392-405)は一度高句麗に下ったが、すぐ倭と通じて高句麗と対抗した。新羅が高句麗の勢力下に入ったのとは大きく異なる。
阿かん王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との関係を維持する。高句麗では長寿王の代となり、百済を攻撃した。蓋鹵王(455-475)は殺され、一旦滅亡した(475年)。王子文周は熊津へ逃げて国を再興した。475年、蓋鹵王が漢城で高句麗軍に殺害される直前、文周(475-477)は父王の命令に従って漢城を脱し、今の公州である熊津に都を移した。
【百済の外交力〜伽耶進出と新羅との対立】
次の武寧王(501 -523)になって、王権の安定を目指して積極的な外交を行うようになる。中国の南斉に使臣を送った。文化的にも南朝の影響が強い。また、漢城が落とされるとすぐに倭王「武(雄略天皇)」が南宋に高句麗の無道を訴えたり、東城王や武寧王が日本から百済に戻って王になったように日本とのつながりも強い。武寧王は国内的には全羅道方面に領域を広げ、さらに伽耶の領有を主張して己文、帯沙を手に入れた(513 年)。このことが新羅との対立を激しくさせた。
百済と新羅は411年に婚姻同盟を結んでいたが、6世紀になり新羅の力が伸びて高句麗の影響力から離れると、百済と対抗するようになった。武寧王を継いだ聖王(523-554)は538年に扶余に遷都した。ここに都があったのは60年あまりのことであった。周囲を山に囲まれ、北を錦江が流れるため、防御には都合がよい。ただし、生産性に優れない。
【新羅との対抗】
551年、百済は新羅、加耶と連合して高句麗を攻撃して、漢城を回復した。しかしその翌年、漢城は新羅に奪われた。これに対して百済は新羅を討とうとしたが、554年、管山城の戦いで聖王が殺されてしまい、百済が勢力を伸ばそうとした加耶は新羅に併合されてしまった。581年、中国は隋によって統一された。
その後、武王(600-641)は益山に弥勒寺を作るなどしたが、一方で新羅との戦いは続く。次の義慈王(641-660)は642年の大耶城の戦いで旧加耶地区の大半を奪った。これに対して新羅は金春秋を高句麗に送り対抗しようとしたが、逆に高句麗は百済と連合して新羅を攻撃した。そこで新羅は唐と接近した。
【百済滅亡〜日本大量渡来】
百済は660年、唐と新羅の連合軍により滅ぼされ、焼き払われた。
唐は熊津に都督府をおき支配しようとしたが、それに対して百済復興運動が起きた。その中心だった鬼室福信は日本にいた王子豊璋を迎えた。しかし内部の分裂で弱体化してしまった。日本からも援軍を送ったが、白村江(はくすきのえ)の戦いで負けてしまった。
百済が亡びたことにより、日本の政治も大きな変化が起きた。日本にも多くの亡命者が来るとともに、新羅の侵攻に備えて多くの朝鮮式山城が作られたり、防御態勢が整えられた。日本に行った百済系の渡来人の中には百済王氏をはじめ奈良時代以降の日本の政治や文化に大きな影響を与えた者も多い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(以上抜粋)リンク
上記から見ていくと以下のくだりからも日本と百済の関係は4世紀前半にはすでに形成されていたものと考えられる。
>阿かん王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との関係を維持する。
また、以下の記述は天皇家が常に百済の王族と交流していた事を示す。
>漢城が落とされるとすぐに倭王「武(雄略天皇)」が南宋に高句麗の無道を訴えたり、東城王や武寧王が日本から百済に戻って王になったように日本とのつながりも強い。
4世紀から7世紀の間はほぼ百済=倭国であり、すでに新羅に敗北した後の白村江の戦いは百済から日本へ百済王朝の要人を連れ帰る為の見せかけ戦争であったことが伺える。 |
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