新羅の歴史は不思議である。その歴史はまさに虎の威を借りた猫である。
三韓の発展形として国家に変遷したのであるが、文化的にも制度的にも最も遅れていた新羅が2世紀余りの間に半島を統一する国家に成長した。
唐、高句麗、百済という強国の中央に位置していながら、互いの利害を風見鶏のごとく利用し同盟国を乗り換えることで結果的に強国高句麗にも勝利する。また新羅はその成立過程からすでに高句麗の属国ともいえ、高句麗の人、文化との交流がかなりあったものと思われる。
百済と日本、新羅と日本の関係を見ていく場合、一旦この新羅の歴史の特殊性を押さえておく必要がある。
@【新羅の発生〜高句麗の属国?】
新羅は辰韓の発展により4世紀初めに建国。同時に百済、伽耶も国に発展していく。4世紀末には勢力を増した高句麗の影響下におかれる。
A【新羅建国〜百済と手を結ぶ】
高句麗の影響下で新羅は国力をのばすと高句麗と対抗していた百済と同盟を結ぶようになった。五世紀後半には新羅―百済で高句麗と対抗するようになる。6世紀には正式に新羅を名乗り当事者が王を名乗る。王は世襲制に変わって、安定してくる。法興王(514-540)のときに律令制を整え、中国北部の遼と関係を結び、仏教を公認した(532)。受容までかなり時間がかかったようで、百済や高句麗に比べて、三国の中ではもっとも遅く、日本に仏教が定着した550年頃までかかる。
B【三国の緊張関係】
百済が高句麗から奪い返した漢城を新羅が奪うことで、百済、高句麗、新羅の三国は決定的に対立するようになった。こうした中、新羅は伽耶を滅ぼしたり朝鮮半島北部の咸興平野までその領域を広げたが、566年に中国北斉に冊封された。
C【朝鮮半島統一〜唐と手を結ぶ】しかし、新羅は泰安半島を支配したことにより、中国との交易路ができあがった。さらに善徳王(632-647)の時に三国統一の動きが始まった。百済との対抗が山場になったときで、金春秋(後の武烈王)を日本や高句麗に派遣して協力を求めたが、両国とも拒否したため唐に援軍を求めた。唐は高句麗を滅ぼしたかったので、新羅と結ぶことで南北から高句麗を挟むことができた。武烈王と次の文武王(661-681)の時に三国統一が行われ、唐との連合によって百済(660)、高句麗(668)が滅ぼされ、日本と百済が行った白村江の戦いにも勝利した(663)。
D【日本制圧、唐との戦争〜停戦】
新羅の勝利で、百済・、高句麗から日本へは大量に人が渡来し、日本は新羅、唐に備えて急遽朝鮮式の山城を築くなど臨戦態勢に入った。唐は百済、高句麗を支配し、引き続き新羅を支配しようとしたので、新羅は671年、唐と戦争を行った(羅唐戦争)。しかし、唐は新羅を攻めきれず、676年新羅と唐が停戦した。
E【新羅の発展・栄華〜高麗に敗れる】
新羅が三国を統一したことで、華やかだった百済文化の影響を受けて新たに発展した。特に仏教や儒教が発達した。935年高句麗の末裔である高麗に滅ぼされるまで270年間余り朝鮮半島を統一した。
参考リンク
※上記の年号を見ていくと日本と新羅の出来事に微妙な関連がある。
新羅が百済660ー高句麗668−日本663−唐671-676と戦争を繰り返す中、日本でも天智661-671 ⇒天武673-686と天皇が移行している。
白村江663の戦いの後、唐と新羅は九州に7年間(663-670)2000人の軍兵を置いて日本を監視している。大量の貢物を唐に贈る事で九州の攻撃を未然に防いだが、天武天皇はその3年後に即位している。あたかも唐が引き上げる条件として天武を唐の大使として日本に残したのでは?と伺わせる年号である。
また壬申の乱672は新羅が唐と戦った翌年に起こっている。
新羅が唐と戦乱を起こしている間を狙って天智天皇が天武勢力を解体するために壬申の乱は起こされたのではないか?
天武=新羅の高官説?はこの辺りからも浮上してくる。 |
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