■邪馬台国はどこにあったのか
遼東方面に位置した公孫氏が頻繁に内政干渉でき、帯方郡の管轄下に置くことができた範囲とすれば、遼東半島南端〜せいぜい現朝鮮半島の平安北道までではなかろうか。
・『梁書巻54四諸夷傳』に「もともと、各文献中に於いて「邪馬台国」の「邪」の字は「示+おおざと(き)」と記されていたが、それは間違いであったので、冊府元亀957の記すところによって「邪」と改められた」という記述がある。「邪馬台国」は本来は「き馬台国」と記載されていたのである。「き馬」とは「蓋馬(がいま・げま)」→「既馬」からの転化である。すなわち、古の「蓋馬国」で、後年高句麗が城塞のひとつとした「蓋馬城」である。場所は現在の渾江下遊東岸の「大古馬嶺」、又は細河の西にそびえる「摩天嶺山」、これらの二つの山系周辺一帯地区。この範囲内に三韓の一つ「辰韓」が存在している。
・後漢書の韓傳の記述に、邪馬台国に極めて類似した国名がある。即ち「弁辰弥烏邪馬国(べんしんみうやまこく)」。当時、弁韓も辰韓も共に自ら王を選出する権限がなく、常に馬韓人が王に選ばれ三韓に君臨していた。であるならば、弁・辰あわせて24国も存在していたわけであるから、中には王の選出権を賭けて反旗を翻す国が出現したり、王となるべき立場をめぐって主導権争いに発展したとしても不思議はない。そんな中から抜きん出た「弁辰弥烏邪馬国(べんしんみうやまこく)」がいち早く魏朝に朝貢し、「親魏王」の印綬を授かるや「弁辰弥烏邪馬国」の「弁辰弥烏」を除外し、もはや「弁辰」の属邦に非ず「邪馬国」として一国の王位を主張したのではないか。
しかしながら、東北方より高句麗が台頭南下し、南方よりは馬韓の一属邦であった「伯済(はくさい)」が馬韓54国を統合し「百済」となって台頭、加えて足元からは弁辰の属邦「斯蘆国(しろこく)」が俄かに強勢となり、これらの新興勢力の狭間に在った「邪馬国」は4世紀を以って滅亡し、歴史の舞台は後の三韓、即ち三国鼎立の場として明け渡す事になった。とすれば、邪馬台国の伝承が中国の文献記録から4世紀代をもって絶えていることも、頷けるのである。
参考
5世紀末の定説の割拠図:リンク
5世紀末の山形氏説の割拠図:リンク |
|