烏恒(うがん)族は、中国の春秋戦国時代に、蒙古高原に繁栄した遊牧騎馬民族で、当時は中国人から『東胡』と呼ばれた。ツングースの民。鮮卑族と同族。
婚姻制は、略奪婚→婿入→最終的には嫁取という、母系と父系の折衷型となっています。烏恒族も鮮卑族も匈奴に滅ぼされて敗走したので、最初に略奪婚の形式をとっていると考えられます。ただし母系の発言力も強く、遊牧民の嫂(あによめ)婚も伴っています。 リンク
>彼等が結婚する時には、皆まず密かに情を通じて、娘を奪い去っていく(略奪婚)。半年あるいは百日も経ってから媒人を遣り、馬や牛や羊を贈物として嫁取りの礼を行なう。婿(むこ)は妻に付いて妻の実家に入り、妻の家の者には尊卑の別なく、朝ごとに拝礼を行なう。然し自分自身の父母を拝する事はしない。妻の家の為に下僕の仕事を2年間すると、妻の家の方では手厚い贈物をして娘を送り出す。その際、住居や生活用品は全て妻の家が整える。
>こうした事から、彼等の習わしとして、全ての事が婦人の指図で決められるが、ただ戦闘の際にだけは、男子みずからが事を決定する。
>父や兄が死ぬと父の後母(未亡人)を妻とし、或いは嫂(あによめ)を娶った。亡父に弟が無くて娶って貰えぬ寡婦は、自分の子供に夫の後を継がせ、自分は伯叔の次妻となる。彼女が死ねば、元の夫と一緒に葬られる。
鮮卑族の拓跋氏(たくばつし)はその後優勢になり、北魏を建国します。首長は最初世襲でなかったが、部族統合の過程で世襲制に変わっていったようです。 リンク
>もともと、鮮卑は匈奴の支配下にあったものが、独立して次第に匈奴を漠北に追いやって勢力を築き、部族の中から檀石槐がすべての部族をまとめて統治していた。しかし彼の死後、部族間で相争う中で鮮卑の一部族であった拓跋部が台頭し、その中心氏族である拓跋氏が華北を統一し、北魏を建国するに至った。
>鮮卑の単于の家系は一定せず、安定的な世襲がなされていたわけではなかった。しかし、後漢末から鮮卑の部族内で首長の地位は世襲されていくようになっていたという。ちなみに、拓跋氏は複数の家系からなり、有力な世襲家系が10姓存在し、百世を経ても通婚しないということを掟として、必ず他の部族との婚姻をする族外婚を原則としていたとされる。 |
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