マスコミがマスゴミなどと揶揄され、マスコミの不必要さを実感する段階まで進行している。
この事に関しては多くの人が共感できるところだと思う。
が、最近はマスコミを否定対象と捉えてはいないだろうか?
これは「マスコミは“事実を報道しない”から駄目だ」という人に対して「そうでしょ〜」と同意し、“事実が報道できない原因構造”を話し、今後の可能性として、露店やサロン、劇場が新たな共認形成の場があることを話している時に。。。
果たしてマスコミが成立した背景には“事実報道”や“消費者の代弁者”があったのだろうか?
“事実報道”や“消費者の代弁者”というのは大義名分に過ぎないのでは?
大義名分であれば、そもそもマスコミに事実報道を期待することが誤りではないか?
という疑問が生まれたことが出発点だ。
そして
マスコミを“事実報道が出来ない”“共認支配している”と否定するだけで良いのか?
マスコミ否定から今後の可能性(答え)に対し、本当に可能性を感じてくれるのだろうか。その可能性は問題ないのか?
そして、そもそもマスコミはどのように生まれたのかを知らずして、マスコミを否定して良いのか?
という疑問も同時に生まれた。
全ての疑問群はマスコミに対して何も知らなかったという事であり、マスコミって何?に対する明確な答えがなかったということになる。
これではマスコミ自体を完全に否定して良いものかどうかが分からない。(言い換えると「完全に否定することが出来ない」)
新たな可能性を提示する時には、現存する旧いものには可能性がないことを明確に提示して初めて新たな可能性に収束できるのだと思う。
だからこそ、価値観や否定意識なしにマスコミを追求するのだと思う。
長くなってしまったが、今一度マスコミを追求することの重要性に気付けたように思う。 |
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