>しかし大衆的には、生命力を失った近代観念はあっけなく見捨てられ、’70年以降、思想に対する無関心が一気に蔓延してゆく。そして’90年、社会主義の破綻とバブルの崩壊によって、遂に誤ったor無力な「構造認識」に対する不信が顕在化し、拒絶視されるに至った。
私が学生だった'80年代後半から、その後'90年前半にかけてバブルの崩壊〜社会主義の破綻など日本はおろか、世界に激震が走った現実を目の当たりにしてきた。またその前('85年)のオウム事件なども含めてまさに世の中が混迷の時代に突入していった頃、テレビでは「朝まで生テレビ」という深夜の討論番組が大人気であった。司会の田原総一郎の過激なトークが売りであり、実際に麻原彰晃や大川隆法、右翼の大物なども生出演し、彼らに大学教授、評論家、エコノミスト、政治家など知識人が対峙して「宗教問題」「天皇問題」などタブー視されていたテーマをも取り上げて激論を繰り広げ、興奮して見ていた記憶がある。
しかし改めて思い返してみれば、口角泡を飛ばしての激論はよかったが、結局は時間切れや、話が平行線をたどり結論が出ないままで終了など、どこか後味の悪い終わり方が多かった気がする。特に学者などはひたすら持論ばかりを長々と展開して、結局は何が言いたいのかさっぱり分からん、という人種が数多くいた。
そして政治家も評論家も含めて、とかく知識特権階級という人種は理想論は言葉巧みに語るが、では現実問題として「どうすればいいのか?」という「答え」を提示できない人々、という事実をメディアを通じて見事に露呈してしまったのである。さらに言えば討論の中身よりも政治家であれば如何に地元選挙区の利権、利益、学者であれば自分の面子、プライドを保てるか、ということに腐心する人種であることを露見してしまった。
>今や、「構造認識」は統合階級(学者や官僚やマスコミ)の商売道具として残存しているに過ぎない。もちろん心ある大衆は、そんなモノを全く信じておらず、彼らの言説を耳目にする度に吐き気を催すほど、ほとほとウンザリしている。
これが、答えを出せない状況の実態である。(18718)
すでにメディアの人気取りだけのエキサイティングな演出は見限られている。今や可能性が感じられる本物の場こそが求められているのである。 |
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