二十歳の娘は、通学2時間を嫌って学校近くの友人達のアパートに泊まり渡っている。5〜6人のクラス仲間のアパートを2人位が順番に泊まっている。宿代を払っていないのでルームシェアリングとは言えない。
部屋で何をしているのかと聞くと、皆が同じ事をして盛り上がっているのではなくて、2人が話をしている横で、もう一人は音楽を聞いているなど、各々が好きに過ごしていると言う。仲が良い友達だねと、尋ねると、其れほど仲が良い友達でもないと言う。
「?」である。
さらに尋ねてみると、娘の意識では、部屋に泊めてもらっているのに、クラス仲間であるが普通の仲間であり特別に仲が言い訳では無いという。
ここでいう「クラス仲間」「仲のいい友達」の位置付けがどうやら違うらしい。今の若者の人間関係と、おじさん世代の人間関係の意識に大きく開きがあるようである。
おじさんたちの若い時代は、「親友」と言う言葉が良く使われた。「親友」とは、自分の全てを打ち明けられる友人である。自分を認めてくれる信頼できる友である。しかし、その様な考え方は、その他の「親友」以外のクラスメイトは、心を開く事が出来ない(≒信用しきれない)と言う事の裏返しであり、さらには、人は味方でなく「敵」であると言う意識が、根底にあったようである。
それは、社会が私権獲得競争で、回りは敵であるという原理に貫かれていた時代である。それゆえに、心を許せる「親友」が観念化し幻想化されていた。
しかし、豊かさの物充足で育ってきた今の若者世代では、「社会が私権獲得競争で、回りは敵であるという原理」が、ほとんど作用せずに育ってきている。
その結果、彼女らは周囲の人を、敵か味方か?と言う意識など殆んどなく、クラスメイトは「クラスの友達」で、それを○×と区分する意識などない様である。少し合わないクラスメイトもいるらしいが、少し距離を置けば良いだけで、否定視する必要もなくその子も「クラスの友達」らしい。
彼女達には、年配たちの持っている、人に対する警戒心、否定視がない。人を基本的には、プラス視している。彼女達は潜在的な社会不全を、強くは感じていない。しかし、人をプラス視して外向人収束している。
認識仲間を求める答え収束しようとする予備軍たちが、スタンバイしているようである。 |
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