今日の認識仲間との議論の中で、外向収束と答え欠乏は同じじゃないのか?という疑問が出されたので、整理してみたい。
例えば、「社会不全」を起点とした、この二つの流れを見てみよう。
社会不全=>外向収束
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答え欠乏
外向収束とは?
・周りの人々、意識、状況などの探索(みんなどーなん?)
答え欠乏とは?
・不全に対する、答えそのものを求める意識潮流
いずれも、不全から探索へと向かう流れとして生じてくる。
では、この二つの収束軸はその後どう進んでいくと考えられるか?
ここで、外向収束と答え欠乏は、どのような相関関係になっているのかを考えてみる。
例えば、我々が近年体験した阪神大震災を例に考えてみよう。
突然の大震災=>皆は大丈夫か?=>力を合せて助け合おう!
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なんとかして!=>災害の原因は?=>ワークグループを組んで追及
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新たな耐震基準や災害対策検討
と言った具合に、人と答えが徐々に課題を生み出し、新たな人の繋がりが場を生み出す流れが顕在化してくる。
上記の流れを、元の投稿(27209、27210、27472 新しい潮流10〜12) に当てはめると、
社会不全=>外向収束=>人収束
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答え欠乏=>認識欠乏=>外向仲間収束
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認識仲間収束
と言った形で、徐々にではあるが、人と答えが一体となったまつり場の形成へと向かって行く。
人は、共認動物(集団動物)であり、観念動物でもある。要するに、常に周りの意識(共認内容)を羅針盤にしながら、答えを追及し共認して、外圧へと適応してきたのだ。これは即ち、人という生き物が外圧に適応する為の普遍構造(自然の摂理)なのではないかと思う。
なるほど、この閉塞しきった社会には、やはり『人と答えが一体となる場』⇒認識形成サイトというネットワークが必要ですね。 |
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