先日TVで、芸能人などの有名人の描いた絵を売ってカンボジアに学校を建てるという企画をやっていた。
そのナレーションで、「この企画が、カンボジアを変えるとは思っていない。できることをやるだけだ。」というようなことを言っていた。
旧観念を漠然と捨象していると、「確かに変わらんだろーな」と思いつつも、「良い事やってる」「やらないよりマシ」と思ってしまうものである。実際TVを見ながら、そう思った。
カンボジアの貧困という現実→苦しい中でも前向きな子供たち→何とかしてやりたい と思うのは普通の人の意識だろう。
そう思う前提には、基本的人権とか、教育を受ける権利とか、個人の尊重とか、様々な旧観念に基く「常識」を頭の中で「是」として固定しているからだ。
にもかかわらず、『変わらんだろーな』という実感は、それらの旧観念に基く『常識』が役に立たないという実感を言い表している。
こんな、矛盾した状態が個人の頭の中で、同居しているのが、いわゆる普通の人なのだと思う。
ここで、『変わらんだろーな』という実感を基に、基本的人権とか、教育を受ける権利とか、個人の尊重とか、旧観念の『常識』をすっぱり忘れてみると、疑問が出てくる。
そもそも、先の企画の有名人たちは「変わる」と思っているのか?ナレーションで「変わらん」といっているのだから、「変わる」とは思っていないだろう。
では、なぜ、そんな企画をやろうとするのか?参加するのか?
「どうせ変わらないし無意味だ」などと言おうものなら、好感度が下がる。芸能人は基本的に人気商売だからだ。
逆に、ボランティアよろしく率先して参加することで、好感度UPは間違いない。
そのへんは企画した人間は、有志を募るといいながら、計算済みのはず。
そのほか考えられるのは、件の「常識」からすれば、「良いこと」なわけで、自己満足は得られる。カンボジアの現実が変わるわけではないから、多くの人の満足を得られるわけではないだろう。
もう一つの疑問は、手を差し伸べようとしている子供たちの状況の原因は、はっきり「貧困」と判っているのに、そのことに対しては、まったく思考が及んでいない。カンボジアの現実なんか最初から変える気なんか無いんじゃないのか?
発展途上国の貧困の原因は我々先進国の過剰消費にあることは、ちょっとネット検索すれば直ぐにわかりそうなものだ。
最後に、その過剰消費を市場社会で煽っているのは、他ならぬ芸能人たちではないのか。
先の好感度UPで持ち上げた人気で、CM出演→販売促進→過剰消費を先導という構図となっている。
ここまで、考えて、見始めたときの印象は180度逆転して、なんとも浅ましい企画をTVはやるもんだなと思った。
カンボジアの健気そうな女の子とその画面に登場する有名人の構図も微笑ましいものから、なんともイヤーな映像に切り替わってしまった。
>もちろん心ある大衆は、そんなモノを全く信じておらず、彼らの言説を耳目にする度に吐き気を催すほど、ほとほとウンザリしている。
を実感した場面だった。 |
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