『京都議定書は実現できるのか 石井孝明著』より引用。
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ある経産省の中堅官僚はこう話す。「IPCCの第三次報告を読んだときは、自分と政府の力の無さを感じて、悲しかったですね。『B29に竹槍で立ち向かった』という太平洋戦争当時の日本の軍部の非合理性を私たち現代の日本人はよく笑います。しかし、同じ事を繰り返してしまったのかもしれません。政策決定過程の中で科学的合理性を追求する場面が少ないまま、日本は京都会議に勢いだけで欧米にぶつかってしまったのです。
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これが1997年京都会議後、実情がわかった、交渉当事者たちの正直な気持ちだろう。ちなみに、このIPCCの第三次報告は京都会議の三年後の2001年に発表された。日本のマスコミが扱った主要な内容は、第一作業部会の「科学的根拠」の部分である。しかし、ほとんど扱われていない第三作業部会の「緩和対策」には衝撃的な分析結果が載せられていた。
90年時点でのガス削減コスト USドル
日本 330.5 【185%】
EU 211 【118%】
アメリカ 178 【100%】
日本のガス削減コストは アメリカの約1.9倍 EUの約1.6倍である。
『京都議定書は実現できるのか 石井孝明著』より引用。
()内は投稿者注釈。
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この第三作業部会報告書では、米国、英国、ドイツなどの有力なシンクタンクの研究が引用されている。経産省の担当者が調べたところ、欧米の一部のシンクタンクでは政府の要請に基づいて、京都会議に利用するため日欧米の実情を分析する研究を進めていた。それが、(1997年京都会議で)使われた後で、(2001年)1PCCの第三次報告書に転用されたという。
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彼らはここまで計算済みであった。そして、日本が本気でさまざまなデータを分析し、正確な状況認識を得たならば、削減率交渉はうまく行かないことも解かっていただろう。そして、各国の削減率を決定するためには、「気候変動枠組条約締結会議」での議決が必要である。それが、日本が議長国となった京都会議である。
歴史を追うと、1992年のブラジルでの地球サミットが温暖化問題の政治的ターニングポイントだった。このサミットでは181ヶ国のうち102人の大統領や首脳が出席した。特にヨーロッパ勢の関心は高く、この時点で2000年での二酸化炭素排出を1990年レベルまで落とすという、枠組みの提起を行った。
しかし、日本からは環境庁長官しか出席しておらず、日本の環境への取り組み姿勢の低さを世界に示すことになった。このとき日本は、1991年のバブル崩壊で、環境どころでは無いという国内情勢だった。
だから、この問題も国内では大きく取り扱われることは無かった。これ以降、日本は国際交渉で劣勢になった。そして、1995年、ベルリンでの「第二回気候変動枠組条約締結会議」で、1990年を基準年とすることが、ヨーロッパ主導でほぼ規定路線となった。
そして、日本はここで完全に追い詰められた。そして、このとき「第三回気候変動枠組条約締結会議」が京都で開催されることが決まった。その時、日本としては国際情勢に遅れまいという判断で議長国になることにかけていたのだろう。
だが、日本のこの問題に対する国民の意識の中心はどうだったのか?なんとしても京都会議で、環境に貢献できるような議決を行う。削減率など具体的な目標を世界で合意し、出遅れた環境政策の失地回復をはかる、など。
その為には、京都会議か決裂しないように議長国としての責任を果たし、多少高い削減率はのむ。このように、マスコミ・学者、官僚(当時の環境庁)による、全くずれた世論形成だったのだ。
そしてこの世論形成の結果、議長国の会議運営責任が重くのしかかり、相手の仕掛けている経済的な駆け引きに、真っ当に闘いを挑めない状況に、封じ込められていたのだ。
そして、京都会議は『成功?』し、普段は日本を攻撃することしかしない諸国(中国まで)からも、『賞賛?』の言葉を頂いた。喜んでいる場合ではない。京都で「第三回気候変動枠組条約締結会議」が開かれると決定された時点で、結果はほぼ決まっていたのだ。
本当に、日本や世界の将来を憂慮するならば、目先又はまやかしの環境対策に走るのではなく、正確な状況認識を共認するところからはじめなければならない。いまや環境問題、とりわけ二酸化炭素削減問題といわれるジャンルは、国際金融資本が主導する、市場を巡るボーダレスな覇権闘争の問題なのだ。
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