原猿の頃は、まだ集団内(一匹のオスと数匹のメス)は“男女充足共認(オスメス間の期待応望充足)”の段階でしかなく、そこでの互いの意識のズレはなかったように思います。
次に、オス同士の闘争共認が第一義になった真猿集団において、メスがオスの意識の変化を感じていたかどうかですが、変化はメスも感じていたでしょう。
ただ、そこでオスメス間でも闘争共認が図られていたかどうかについては、やはり、外圧を直接感じないが故に共認できなかったと思います。
そしてそこで、メスの自我回路が発現したのではないでしょうか。
オスに守られて安穏していたが為に過酷な外圧に晒されることもなく、闘争共認の大切さも闘争存在としてのオスの有難さも、本当には実感できなかったのだと思います。
実現論では、そこで、『闘争課題を担えないメスがオスたちの白い目圧力に晒され存在不安になり自我が形成された』とありますが、私はそれ以前に、今まで対象としてきたボスの意識の変化によって、メスの側に自我が発現したのではないかと考えます。何故なら、初めからあまり対象としていないオスに白い目を向けられたからといって、それほど存在不安→自我を強く形成するとは思えないからです。
今まで通りの男女充足共認を求めていたのにボスの意識が変化してしまったことによる、「仕事と私(たち)とどっちが大事なの?!」っていう存在不安→他者否定の自我です。(夫がかまってくれない現代の夫婦関係で再び同じ現象が起こったように。) |
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