田野氏から「縄文時代の気候変動(14349)」と意見を返していただいて以来、考察を止めていました.最近議論されている大陸からの文化影響という点からの検証も含め、もう少しすすめておく必要はありそうです.
寒冷な気候環境では、周氷河(※)地域が拡大します.ここでは、気温が零度を挟んで上下に変化することが繰り返されます.水は凍ると体積が1割増大し、融けると流動していきます.このように液体と固体の相変化が繰り返されることで岩石が砕かれ緩やかに土砂が降下していくことになります(凍結融解作用).
※氷河の末端から、森林限界を周氷河地域とすることが多い.現在でも、陸地の15%くらいがこの周氷河地形に入る.しかし、洪積世の氷期には、ヨーロッパでは、地中海を除いたほぼ全域に広がっていたし、日本でも北日本のかなりの部分は周氷河地域と見なすことができた.
この作用により、相当程度の標高まで表土がはぎ取られていきます.それまで豊かな実りを与えてくれた落葉広葉樹も少なからぬダメージを受けたと思われます.木の実の収穫にも影響がでたことでしょう.植生自体の変化が起こったかもしれません.
しかし、それ以上に影響が大きかったと思われるのは河川流域です.
土砂が山間部より流れる河川の流水によって運ばれていき、これまで例えばハマグリがとれていたような内湾が埋められてしまったことが考えられます.このような沖積上部砂層とよばれる堆積層が拡大していることが明らかになっています.あるいは流路が大きく変化したかもしれません.いずれにしても食料、建材などを供する森林以上に、水の供給環境が変化することによるダメージは小さくなかったことでしょう.
同じ気候変動でも、大陸では文明を誕生させたようですが、三内丸山は結局この寒冷化による影響をしのぐことができなかったようです.
実はこの寒冷化を受けた縄文晩期(約3000年前)、ソバ属の花粉・果実が北海道から九州に至る遺跡(計14箇所)から検出されているそうです.
ほぼ同じ時代に北から南まで一連の分布を示すことから、人為的な栽培によってもたらされた可能性が高いといえます.ほどなく、稲作の伝播により、日本に稲作栽培が始まることを考え合わせてみると、栽培技術をもった大陸人が段階的に日本へ伝来したのではないか、と考えられます.
参考:日本の周氷河地形 大雪山
リンク
埴原和郎編 「日本新起源論」 角川選書202 |
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