「内観法」について、著者は、薬物に頼らない有効な治療法であるとしながらも、一方でそれは決して完璧なものではなく、特に「自己否定的な患者」にとっては、必ずしも有効なものではないという懸念も示している。
以下、「医者にウツは治せない」織田淳太郎著(光文社新書)より、その部分を引用する。
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だが、内省による自己認識は千差万別である。問題はその自己認識が医療者の意図とは正反対に展開していくことだろう。つまり、義務感に突き動かされた“偽り”の感謝を作り上げるのではないかという疑問。加えて、「生かされている存在」としての自分が、「無力な自分」「迷惑ばかりかけている自分」というネガティブな観念ばかりを増強させ、必要悪としての罪悪感を助長させるのではないかという私なりの懸念が、そこには横たわっている。
実際、太田理事長も取材の中でこう口にしている。
「内観では“してもらったこと”“迷惑かけたこと”を思い出す患者さんが圧倒的に多い。でも、“して返した”ことはあまり出てこないんです」
(中略)
彼らは「健常者」とは一線を画す、いわゆる「心病める人々」である。やはり、「生かされる存在」といった観念のみの助長は、自己の無力化も助長させうるという意味で、どこかに危険を孕んでいるような気がする。
(中略)
しかし、この傾向には、自己否定がもたらす一種の“妄想”といった側面が含まれているような気がする。言い換えれば、「人は生かされるだけの存在ではなく、生かし、生かされ、それによって円が循環している」とする私なりの観念とのギャップが、そこにある。
(引用終わり)
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●露店のお客さんや身近な仲間たちと話をしても、自己否定意識やダメ観念や不安意識の強いタイプの人は、自分が相手にしてあげたことや、相手の表情をなかなか思い出せないという傾向は、確かにあるようだ。
これは、事実認識をもって観念を塗り替えていくしかないのだと思う。著者の言う「生かし、生かされる存在」も、まさに人類は共認動物であるということであり、期待と応合の充足を活力源として存在している、という事実に他ならない。
74729で言われているように、根本規範に照らし合わせることが有効なのも、それが事実認識そのものだからなのだと思う。
ウツ治療の現場にも、事実認識=構造認識が必要とされているのではないだろうか。 |
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