『「報道の自由」を盾に、社会秩序を根底から破壊してゆく者たち』(152310)
を読み、マスコミ腐敗及び報道の自由を自分達の自由と履き違えるのは許されない行為である事が非常に良く分かります。
白鑞金's 湖庵(リンク )というサイトに、西武ー早大金脈廃墟という記事があり、その中でマスコミ腐敗の構図がいかに根深いものであるかを述べていますので紹介します。
以下転載
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早稲田大学とは何か。ただ単なる有名私立大学の一つに過ぎないなどとはもはや誰も考えていないだろう。
厳正に調査すると明言した以上は決して避けて通ることが許されない大問題がそこにはある。
昨日、テレビ朝日「サンデー・プロジュクト」を見た視聴者の中には、早稲田大学を経由したマスコミ腐敗の構図がいかに根深いものであるか、もう動かしようのない決定的証拠を見抜いた視聴者も少なくなかっただろう。
ところで「サンデー・プロジェクト」放送の前日にあたる土曜日、「マスコミ・エリート徹底糾弾」と題して、次のように書いた。
一部、抜粋したい。
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忘れたわけでもあるまい。作家の田中康夫が長野県知事になったとき、記者クラブ閉鎖問題が起きた。なぜ起きたか。
誰よりもよく知っているのは取材する側、マスコミサイドであろう。
理由など説明の必要もない。長野県議会議員と県庁とマスコミ取材陣との間だけで調整されてきていた、県民不在の、長年に渡る腐り果てた馴れ合い報道、爛れきった蜜月関係を突然絶たれそうになって慌てた。たったそれだけのことで。
それほど騒ぎたいのならもっと他に騒ぎ立ててもいい問題が山積しているだろうに。いつどこでどんなふうに殺されても殺され甲斐のある報道というものがもっとあるだろうといっているのだ。
何が報道の自由かというのである。報道陣の自由とはまったく違うのである。はきちがえていただろう、大真面目に。報道の自由ではなく報道陣の自由などという初歩的矛盾。自分達自身の小賢しい浅ましさに気付くどころか逆に酔ってでもいるかのような高飛車な態度。
市民を装った権力。
そんなに楽しいか。知事「いじめ」が。その一方で「倫理」などと。まだ回復していないのだろう、「談合ジャーナリズム病」が。
理解が行届いていない様子が紙面を通して実によく伝わってくる。
いちど一斉に喪失したルールの、けして忘れてはいけなかったはずの深い意義。一朝一夕に取り戻せるとでも教えているのか、朝日新聞は。
そんなセンスで平気で給料を受け取れる正社員らの無神経。
読者に重篤な精神障害症状を惹起させていることにも配慮できていない、無邪気で見え見えな情報操作の痕跡。プロのつもりか。
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以上である。
田中康夫が昨日、同番組に出演することなど、実はまったく知らなかった。本当に知らなかったのだが、マスコミ界を巡る余りにも深刻な問題が、いまなお未整理のまま棚上げされた状態で隅へ隅へと追いやられ、視聴者に対する背任罪ともいうべき重大性を増々帯びてきたがために、内容に重なる部分が偶然生じた。
ちなみにTVガイドならどこの書店やコンビニなどでも置かれているが、とりわけ情報番組に限っては内容の変更が少なくないので、TVガイド自体いっさい見ない。したがって田中康夫と桜井よし子の出演も当日の朝刊TV欄ではじめて知った次第だった。
田中康夫が語り始める。問題だと指摘された土木事業に関わる書類の事実経過について。全国紙では報道されなかった、テレビでは実質犯罪者扱いされたうえに無視までされた事実について。
すると突然、番組の中心人物である田原総一郎が手元の原稿をゴキブリのごとく、ガサガサガサガサとわざとらしくバタつかせて田中発言をさえぎってしまおうとする。そのため視聴者はよく聞き取れない。
桜井よし子の主張にしても同様だった。田原総一郎のこれまでの主張ないし立場にとって都合のよくない発言が語られ始めると、また例によって例のゴキブリの合図のごとく、桜井発言に対する他のレギュラー・コメンテーターらによる封じ込め発言を阻止しようとはしないのである。そのために視聴者はよく聞き取れない。
田原総一郎の現在の根城は朝日新聞ならびにテレビ朝日および早稲田大学である。さらに政治・経済のみにとどまらず、幼稚な知財窃盗の技を競うためのB・C級芸能作家の巣窟と化した日本文学界まで、マスコミを通じて何もかもを早稲田閥中心に回そう回そうと必死に工作している印象が如実に伝わってくる。小賢しいばかりでバカバカしいほど効果のない老醜のあがきは、視聴者にとってたいへん鬱陶しい。
穢らわしい。
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転載終わり |
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