三内丸山は最大時で500名の人員がいたようである。
これは自然増の結果と見る見方もあり得なくはない。しかし説明がつきにくいのは、後背地に豊かな栗林を抱えている、にもかかわらず村全体は海に向っている、と言う事である。
しかも彼らは巨大な矢倉を立て、かつ海に向って比較的広い道を作っていた。
これは海の幸の収穫のためだろうか?かつその道沿いには、通常は境界を(ムラの端)示すスト‐ンヘンジが作られている。
ここであくまで仮説であるが一つの見方を提示したい。
三内丸山のこれらの史跡や規模が示すものは、北海道南岸に面する異部族(例えば、原コーカソイド系といわれているアイヌ。これはすでに略奪闘争を経験している)に対する、同類闘争に備えるためのものではなかったのだろうか?
一つの理由はその規模にある。通常は500名の集団を維持しようとすれば、集団の多段階編成が組織論的に必要になる。つまり指導層(中枢分化)が必要になる。かつ小規模集団に比べて、統合上色々面倒な手段が必要になってくる。つまりある意味で一体化を損ないかつ「余計な」仕事が増えてくる。
誰も好き好んでそんな道を選ぶとは考えにくい。それを敢えて行ったと言う事は、その絶対的必要性があったからとしか考えられない。
その絶対的必要とは=同類闘争である。同類闘争に備えようとすれば、あるいは対抗しようとすれば、必然的に規模の拡大or連合が必要になってくる。あるいは指導層や戦闘部隊が必要になってくる。
そう考えれば、彼らが海に向っていた事も、矢倉=敵に対する監視塔の存在も、海への道路=部隊移動のため、も一定説明がつく。 |
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