2194 もともと、生物には親子関係など無かった
>生物にはもともと親子関係など存在しなかったのです。例えば単細胞生物は、どんどん分裂して新個体が環境の中へと拡散してゆくだけです(彼らは互いに仲間であることを認識する機能は持っていますが、親子であることを認識する機能など、持っていません)。それは魚類や両生類でも同じです。つまり新個体は放っておけば新世界(環境)へと泳ぎ出してゆくのが、当然なのです。なぜなら、それこそが生命の根本的な適応原理たる個体(同類他者)の多様化原理に適った在り方(補:同類他者の変異が多様なほど、種としての適応が有利)だからです。
では、何故人類はわざわざ適応原理に反する親子関係や血縁に対する拘りを持つのか?
その源流を考えてみると、大きく二つの段階が考えられる。
一つ目は、相続の必要性。
哺乳類、とりわけ類人猿〜始原人類の集団形態は一部(チンパンジーなど)を除き、母系制集団であった。この場合、母・娘間の繋がりは強固なものであると言えるが、それは親子間の繋がりというよりも集団維持の必要性から組み込まれたものである。
参考:1321 哺乳類の性闘争本能
息子=移籍、娘=残留という仕組みは、種の存続に有利な集団形態として、今でも大多数の哺乳類に踏襲されたシステムである。
しかし、人類が略奪闘争を勃発させ、私権闘争激化→力の原理による国家の形成へと至る過程において、序列維持の為に生涯固定の身分制度が形成されます。母系制集団は壊滅され、その代わりに父系制の相続制度、父・子関係が強化される。
実はこの段階で、既に上記の生命の根本的な適応原理を逸脱している事になる。より強い子孫を残すための淘汰適応の原理が、私権維持の為の私的選択によって歪められてしまっているのだ。より強い自我・私権によって、権利だけが継承される、という形で。
2世議員、親の七光り、などが現代でも皮肉の対象にしかなっていないのは、自然の摂理に反した当然の批判とも言えるのかもしれない。
そして二つ目が、近代思想の代表格、個人主義の横行であろう。
近代市場の開花と共に、万人が醜い私権闘争へと参加し始めて以降、実は親子関係ですら私権闘争上は敵対関係となるのが当り前の世の中となった。しかし、その醜い現実を本源風の観念で巧みに覆い隠してきたのが、個人第一、という観念である。
すると、実は本当に大事なのは親子なのか?自分なのか?という疑問が沸いてくる。
よくよく考えてみると、現在の親元収束の潮流も、一見本源風な規範が見え隠れするものの、実態は「自分の」親や「自分の」子を自分の為に近くに置いておきたい、というだけの極めて自己中な意識こそが本流であって、親子という観念はもっぱら自己中を正当化したいが為に使われる言葉として捉えたほうが良さそうである。
もちろん、哺乳類も人類も、保育期間においての母子(親子)関係は非常に重要なものである事は変わない。しかし、その過程の先には、生まれながらにして全ての子孫に与えられた、種の存続という役割が存在している事を忘れてはならない。
保育期間を過ぎても親子離れができないとどーなるか?
既に絶滅種との噂も出始めている、ニート。このまま無圧力な家庭に囲い込まれていれば、文字通り生物として不適応態となる事は間違いないだろう。 |
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