”縄文に学ぼう”より大竹幸一郎さんの説
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>平和を愛する縄文の民は、新しい文化や人を受け入れることに積極的でした。海を渡る、国境の無い交流を続けたのも、そういう性格の為せることでしょう。
北海道では、この性格が逆目に出ました。アムール河流域にあった、石刃鏃に代表される外来の狩猟民族に征服されたと思われる時期があるんですよ。ここにはじめて公開する私の仮説ですが、それまで全国どこでも通じていた縄文の言語に替えて、アイヌの祖先は征服者の言語を受け入れたものと思われます。今日のアイヌは縄文人そのままの原オーストラロイドの形態を色濃く残していますが、言語は民族的形態の異なる樺太アイヌと同じアイヌ語に変わりました。英単語の国のガイドブックのフランス語の歴史で見たようなクレオール化が起こったものと思われます。ただこういう変革をもたらした石刃鏃の民族は、突然出現したときと同じように、突如として北海道から姿を消してしまいます。彼らの石器や土器が、縄文時代早期の比較的短い期間の遺跡から出土するだけです。
-----引用以上
・・・三内丸山の1500年にわたって営まれた500人の巨大集落が同類闘争圧力によるものとすれば,この外来狩猟民族に追われて,北海道から落ち延びたアイヌたちこそ,この集落を作った人たちではないか?そして同じく北海道から落ち延び日本海沿いに放散した同族たち,や三内丸山を第2の故地としてそこから放散した同族たちと,贈与の関係を結んでいたのではないか?
それであれば,新潟県糸魚川産ヒスイ、北海道十勝産黒曜石(外来の征服民族が突如として姿を消した後の事か?)、秋田産アスファルト、岩手県産琥珀などの多様な贈与品=贈与者の分布が腑に落ちる。
三内丸山が異例に食糧生産的には豊かであったようであるが,そこではポトラッチのような贈与者に対する歓待のお祭りが行なわれていたのではないか?
贈与者は,第二の故地で同胞たちとの旧交をあたため北の地を偲んだのではないか?
三内丸山(当時)は殆ど海辺であり,6柱のタワーからは北海道が良く見えたようである。
前提になっている,大竹幸一郎さんの
北海道の縄文人が>外来の狩猟民族に征服されたと思われる時期がある
・・・・・というのはどういう根拠によるのか?いつの時期か?
という疑問が残ります。
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蛇足ながら大竹幸一郎さんのプロフィール(下は,第2HPの)
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65歳にして不良少年,本を自費出版し,ホームページを作ってはHTMLを極めて裏技を開発し,さらには第2HPをもUPし,合気道をたしなみ,1500mを泳ぎ,蕎麦を打ち,コーヒーを入れ・・・なかなか元気なお爺さん(失礼!)です。 |
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