>黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか?
>逆に先日のNHK番組が何を持って「交易説」を唱えているのか、その根拠が知りたい。何か明確な根拠があるのであろうか?
上記の北村さんの疑問の本質は現在の縄文研究全般に対する重要な問題提起であると思います。物質文明偏重の自然科学や人文・社会科学の世界観からは登場しにくい視点ではないでしょうか?自然環境、人類学、考古学、文化などを総合し統合する分野の必要性を強く感じます。
三ヶ本さんや岡本さんが既に指摘されておられるように「交易説」の背景には物質文明をそのまま縄文時代に適用する固定観念があると思います。私は「交易」という概念以外にも「貴重品」や「装飾品」「装具品」という言葉にも違和感を覚えます。
例えば「貴重品」とは物質文明人の概念であり、縄文人の概念に適用して良いのでしょうか?私は珍しい品という思いは考古学者の一方的な価値観に過ぎず、縄文時代の誰にとっても普遍性の高い認識力を表現した品物であり、物質的な価値よりも精神的な価値が高かったと考えています。
硬玉(翡翠)に象徴される「蒼(あを)」や、琥珀に象徴される「紅(あか)」は天然素材の中に、自然界の畏怖の念や精霊を現しており、誰もが共通の認識を感じていたと思われます。従って、これらの品物を通して「認識の伝播や知識の発信」が成されたと考えると「贈与の結果」と捉える方が適切であると考えられます。
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