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消費社会と受動社会がつくり出す、矛盾と危険性 |
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江岸元 ( 21 神奈川 学生 ) |
01/03/14 PM05 【】 |
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実現論の第3部:滅亡の「観念機能、作動せず。」=思考停止を読み、ふと思いついたモノがある。ディズニーランドである。この代物は、実に様々な趣向が凝らされているのだが、訪問者自身のアトラクションへの参加方法は、驚くべき程ワンパターンなのである。訪問者自身は、アトラクションが用意された空間へ入ったら最後、自分の足で歩く事さえしない、また手を使って何か操作する事も無い。ただただ用意された乗り物に乗って、その空間を移動し、アトラクションの発する音響的・視覚的刺激をひたすら感受するだけなのである。要するに、人間が持つ能動的能力は、一切求められていない。争いも冒険も全て目の前で演じられているにすぎない。それを傍観者として目と耳で感じ取る事だけを求められるのだ。
私はここをつい最近訪れ背筋に戦慄が走った。それはこのディズニーランドの恐ろしい風景が、他でもない今現在我々が生きる21世紀前より続く消費社会の縮図である事に思い至ったからだ。これの故郷が消費文明先進国アメリカ合衆国である事は偶然ではないだろう。
あらゆる物事を商品化して売買の対象としていく。それが資本主義社会の仕組みの基礎になっている。だからそれまでの売買の対象外にあったモノも、次々に商品になってきた。最初のうちはまだ良かった。でもそのうち、商品になるモノが見当たらなくなってきた。それでも消費文明という怪物は満足しない。いくら食べても飢えと渇きに苦しむ餓鬼と化した亡者みたいなものである。まだ金儲けの余地は無いか、どこか見逃しているモノは無いかと虎視眈々と次の獲物を狙う。そこで目をつけられたのが人間の能動的能力である。新商品の開発は、これを限りなく削いでいく方向で進んでいる。
家事労働は電化製品にとって変わられ、紅茶やコーヒーを入れる手間は缶紅茶・缶コーヒーに転嫁され、身体を遊ばす遊びは、ボタン操作一つで勝手に登場人物が暴れ回ってくれるテレビゲームに駆逐されつつある。(この事実は、あまり子供達にとって良くない事だと思う。)そして、人間に要求される唯一の能動的行為は、お金を払うという営み、あとは限りなく受身になっていく事だけである。見る・聞く・食べるという具合に。では、金を稼ぐ営みの方はというとこちらも省力化と自動化が進行し(株式の世界など)、人間の能力は機械やシステムの部品と化してきている。
というわけで、消費文明に侵食されている度合いの強い先進国ほど、人々は肉体を動かす機会をどんどん奪われていく、そしてそれと同時にモノについて考えるという力が弱くなっていってしまうのではないだろうか。また一方で、消費に繋がる食物摂取については、メディアを通じて食べろ食べろとの大合唱であるから、当然の帰結として肥満という問題が実に多くの人々に生じる。
そして、この肥満のもとの解決という名目のもとに、新たな商品が次々と生み出されるのである。運動不足解消などと思っても今ではなかなか無料という訳には行かない(笑)というような、矛盾と皮肉に満ちた世界がこの現代に確実に存在している。
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