>「民営化すれば市場が活性化する」という理屈は、性闘争⇒自我・私権闘争の活力を根拠にしている。性闘争⇒自我・私権闘争が活力源であるが故に、その活力を生かすべく自由な市場競争に委ねれば、市場は活性化するというわけだ。(101948)
(官から民へ)統合課題を統合機能のない市場に任せるというのは、それ自体が論理矛盾である。しかし、なぜそのような事態に至ったのか。
官の行う事業とは、市場が切り捨ててきた旨みの少ない課題、しかし人々に必要不可欠は課題であったはずである。古くは塩であったり、輸送や通信であったりした。
1985年に日本電信電話公社・日本専売公社、1987年に日本国有鉄道が中曽根内閣の下で民営化されている。しかし、これによって関連市場が活性化したというような形跡はない。
あるのは、資産の売却に伴う土地のバブル化や株式公開による株価のバブル化に貢献したぐらいである。もともと、産業そのものに魅力がある訳ではないのだから当然である。
それでも、豊かさの実現により需要が飽和した80年代の、行き詰まった市場を活性化(バブル化)させるという期待があったに違いない。
しかし、バブルが崩壊し誰の目にも市場に可能性を見出せなくなった現在において、それどころか私権そのものを断念したかような世相にあって、民営化が意味するところは、何なのだろうか。
もはや、民への期待というよりは、官の放棄(官の崩壊)という色彩が強いのではないだろうか。序列原理の崩壊過程、それも末期的な状態のように思われる。
税制をどのように弄くろうとも、もはや財政赤字を解決する目途は立たない。さりとて、赤字国債を打ち続けなければ、市場の縮小は目に見えている。
少子化に対して経済的支援を繰り返しても、一向に歯止めがかからない。高齢化社会に対して福祉の充実といっても、老人の活力が上昇している気配がない。公教育の荒廃は官の事業の失敗としては致命的である。
序列原理ではもはや統合課題を担えないという現実が、次々と明らかになってきている。答えがないので課題放棄(捨象)、民へ委譲すれば活性化するというゴマカシは、官の劣化収束そのものではないだろうか。
統合原理を変えなければもはや先はないのだと、頭を切り替えない限り新しい現実に対する答えは出せないのだと、観念すべき時がきたことを「官から民」という言葉が教えてくれる。
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