>もし当時の日本列島に少数ながら略奪性の高い部族がおり、それが略奪した品と引き換えに生活上の必需品の一部を得ていたとすれば、交易であるという仮設も成立しうる。しかし私の現在知る知識の範囲内では、そのような部族の存在は確認できていない。(14552 北村氏)
黒曜石や翡翠といった生産上・祭祀上重要な物資は、私権社会の常識を当てはめれば、それを独占することが当然の帰着となります。当然産地周辺は塀で囲われ、砦が築かれることとなります。現に、私権社会の重要物資たる鉄や貴金属の産地は、例外なく奪い合いの攻防が繰り広げられました。
北村氏の指摘の通り、縄文時代にはそのような部族は確認出来ず、産地は誰でも石を取り放題の状態で残っています。(翡翠に関しては、後の私権時代においても重要物資であったので、大和、奈良時代等の遺構はあります)
問題は、限られた産地の物資が全国に行き渡る、贈与の仕組みとなります。ここで、小林達雄氏が研究された縄文の“土器様式圏”が参考になります。
彼は著作の中で、土器型式の広がりとそのいくつかが纏まった様式の広がりが、土器製作の共通のモデルや版型を共有する社会集団の拡散によって引き起こされるのではないかと論じていることと、様式圏と通婚圏との間に関係がありそうだということも示唆しています。
そして、土器様式圏が、単なる同じ気風の土器製作集団という次元を超えて、同じ観念、イデオロギー、ひいてはコスモロジーを共有する集団を意味するものであること論じています。
この土器様式圏は、例えば縄文中期には、19の様式が確認され、直径300〜400kmの圏域が最も多く、次いで600〜700kmの圏域が多く、平均すると450kmと計算されるそうです。
となると、様式圏域内での、つながりのある部族間における贈与のネットワークだけでも、現在の関東圏や近畿圏を網羅することが可能な規模を持っていたと考えられます。
土器様式圏について考古学的に更に追求することにより、交易か贈与かの決着が付くと思われます。 |
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