マスコミに支配される社会
103596 趣味を社会に繋ぐるいネット
 
阿部佳容子 ( 43 大阪 営業 ) 06/01/04 PM02 【印刷用へ
白状すると、私は映画、特にアメリカ映画のファンで、素人なりに古今東西の映画にはそれなりに通じているつもりです。単純に感動したり、教えられたり。また、映画は知識の宝庫でもあり、そこから派生する好奇心はあらゆる分野に導いてくれたように思っています。話題になった映画書の類も大抵目を通し、恥ずかしながら、30年以上営々と続く、ささやかな趣味なのです。

最近、おもしろい映画書を読みました。

>後半はお話が実にご都合主義になる。神父のアピールでギャングは捕まり、死刑を宣告される。神父は面会に行き、少年たちの夢をくずすために、臆病者として恰好わるく死んでくれ、と頼む。ギャングはむろん最後まで突っぱって英雄的に死にたい。が、死刑の後、新聞は泣き叫び助命を乞いながら刑場の露と消えたギャングの死を報ずる。

>神父のアピールなどでもろくも崩れるようなギャング組織であれば、もともとさしたる問題でもないので、もっと大きな、どうにもならない社会的原因があるから、ギャングがはびこり、少年たちはギャングを夢見るしかない状態になっている。その社会的原因を究明し、是正する方向に努力するのが、社会啓蒙家のとるべき道であって、たまたま友人だったギャングを死滅させてなんの足しにもならないだろう。少年たちも、ギャングへの夢は挫折するかもしれないが、それに代る夢は、あいかわらず抱けないにちがいない。

>つまりこの神父の態度は極めて保守的であって、功なり名とげた代議士が青少年問題を論じるのと大差がない。この企画そのものが、いわゆる良識の声と都合よくドッキングしているのが見え見えであり、さらに問題なのは、こういう良識なるものを根っから肯定していることだ。良識の声の代表として登場する神父の都合のみがよくなる結末で、少年たちの都合はほとんどよくならない。ビデオをご覧になる諸兄姉、本当の正義とは、良識側だけが都合よくなるものとはちがうのだ、ということを、この映画をご覧になってとくと考えていただきたい。
〜色川武大 「映画放浪記」 汚れた顔の天使(‘38)の章より〜

これは、1930年(大恐慌時代)前後、アメリカにはびこったギャングを主人公にしたある映画についての一考察なのですが、この映画、下層階級(=移民)からのしあがったひとりのギャングが、同じ貧民街の不良少年たちから英雄視されるのが前半。後半は一転して、神父(少年期の親友)の働きで逮捕され、死刑が確定。こどもたちの英雄像を打ち砕き、彼らにまっとうな道を歩かせるために、「泣け叫びながらぶざまに死んでくれ」と説く神父とそれを拒否するギャングのやりとりが山場にもなっています。

主役を演じた俳優の強烈な個性、スピーディな展開(演出)、意表をつくラストとその真偽。多くの評論では(私が読みうる限り)、そういう面から展開され、傑作とまではいかなくても概ね「佳作」という評価を得ていました。特に、この25年ほどは、某東大総長だった有名批評家を中心とした一派が幅を利かせて、「映画とは画面に映し出される影のみを問うべきであり、それ以外(思想性やメッセージ)を問うのはヤボである」という風潮が強かったと思います。

それをこの小文では、当時の社会の根本問題を無視した「ご都合主義」と断じ、映画の企画そのものの是非を問うています。さすが、戦後、筋金入りのワルでならした色川武大の面目躍如というところでしょうか?

へー、こういう切り方は珍しいな、というのが読後の感想。そして、こういうことって、るいネットで言われているとおり、今の社会でもあふれているよなー、と、るいネットとこの映画、私にとっては趣味の世界が初めてつながりました。

>事実、私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。

>このパラダイムの内部では、それによって作られた観念群をどう組み変えても、又、どれだけ深く思考を巡らせても、決してパラダイムそのものを否定することは出来ない。だからこそ、これまで現実を否定する意識に対する懐疑(例えばデカルトの「我、思う」ことそれ自体に対する懐疑)は、針の先ほどの疑問さえ全く生じ得なかったのである。(20354)

>要するに、現実否定意識を正当化しようとする倒錯思考のパラダイムでは、決して現実(特に下部意識)を全うに対象化することが出来ず、従って現実を変革することはできない。これでは、社会を統合することなど出来る訳がない。(21089)
 
幼児期から母親に連れられ映画館に通った私にとっては、生活の一部ともいえる映画の世界。20世紀の「複製芸術」と言われたこの世界がどう発展するのか、あるいはどのような終焉を迎えるのか?これからは、画面に映し出される影にのみ心奪われるのではなく、その製作、企画の背後にあるものを掴み、社会を掴んでいきたいと思います。





 
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