>7,科学者とスポンサーとの間、また、科学者と社会との間には「重要なことは真理の発見である」「真理の発見は絶対的な価値である」という暗黙の了解が成立している。それが科学者の存立基盤の一つになっている。
このような意識が、「真理を発見するためなら何をやってもよい」というスタンスを支えていると思われます。原爆を開発した物理学者・数学者の研究グループも、当時は熱狂に包まれて研究開発を行っていたといいます。次にも出てくるように、真理の発見は至上の価値で、それがもたらす社会的影響については「わしゃーしらん」という意識も醸造されてくるでしょう。
>8,科学の知識は没価値・中立であり、ある研究成果が社会的弊害を生んだとしてもそれは科学者、あるいはその研究が悪いのではなく、悪用・誤用した人に責任がある。
科学者には責任がないというのはおかしいのではないでしょうか? 実際、毒ガスも核兵器も軍人や政治家が着想したのではなく、科学者が発案し提案したものです。「研究が悪いのではなく、悪用・誤用した人に責任がある」というのは言い逃れではないのでしょうか。それ以前に、罪悪感を感じることもなく普通に言い訳していられること自体に、ものすごい違和感を感じてしまいます(5202の本田さんの投稿の最後の部分で、本田さんが阿倍被告の発言に感じた違和感に近いと思います)。
「真理の追求」の美名のもと、自らの興味分野への資金の投入を期待して、政治家や軍に働きかけた科学者は数多い。普通、一般の世の中の職能集団はその結果に対して社会的な責任を負っている。科学者だけ「罪なき傍観者」というのはおかしいし、また、科学であれ何であれ、人間が生み出す成果に没価値・中立などということがありうるはずがないのでは? と思ってしまいます。
(5229)
確かに「その研究が悪いのではなく、悪用・誤用した人に責任がある。」と言われると、何となく科学技術は悪くなく悪用するのが悪いんだ。という変な論理(言い訳)に納得させられていたと思います。小さな頃、原爆の本等を読むと大概この様に科学者は純粋な真理追究者であり=正義であるといった言い訳が必ず弁明の様に付いていた。
今、改めてこの科学技術というものの発達の背後を見ると、この「科学という研究は良くて、使い方が問題だ」といった社会的矛盾に気付く(犯罪計画を立案したものは無罪で、手を下したものは有罪という矛盾に近い)。科学者という個人主義である前に社会人という存在、社会の一部である事を認識する必要があると思う。
そもそも研究するには、その困った現実を突破する課題があるはずで(または先読みして)、その課題は常に社会全体を捉えたものでなければ片手落ち=後で必ずトラブルになるのは明らかである。
原爆などの研究背景は明らかに戦争であるし、企業の製品開発も一面的な部分しか見てないが故のアスベスト問題であったりする。
科学者という職業上・環境上に専門性に特化し、社会との関わりが薄くなりやすい状況下であっても、社会圧力(皆の期待)を掴み取って、課題を構築し社会全体にプレゼンテーション(素人に解かるように、かつ相互受発信)していく事が大事であると思う。
現在ネットもそれなりに浸透しており、各研究機関はHP上に研究内容と共にUPしている(概要しかUPしてないのがほとんどだが)。これは現在の共認原理に移行しつつある時代を反映した圧力によるものだと思う。
あとは、現状の発信だけのものから相互受発信の方向へと移行すれば、皆の意識のキャッチはもちろん、先端意識(皆の潜在思念)によるディスカッションも可能である。
いまあるネットの共認圧力に期待し、磐石な統合サイトの構築に励む事が今求められていると感じている。 |
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