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 今、社会は全面閉塞に陥り、誰もが「出口が見えない」「答えが欲しい」と必死に突破口を探している。つまり、誰もが目標を見失って、答えを探しており、それは、もはや自分だけの課題ではなく、みんなに共通の普遍的な課題になってきている。

 実際、家庭も、学校も、企業も、国家も、それぞれに深刻な問題を抱えて行き詰まり、今や目標を失ってフラフラと迷走しているだけである。では、人々が目標を見失い、社会がここまで閉塞してしまったのは、いったい何故なのか?

 それは、(先進国では)'70年頃に貧困を克服してしまったからである。それまでは、人々は飢えの圧力(=生存闘争の圧力)に晒され、飢えから逃れるために、必死になって働いた。生存闘争の圧力の下では、成員は序列原理(力の強い者に弱い者が従う仕組みで、徹底した力の原理とも言える。殺し合いを避ける本能の仕組みで、人類社会の身分制度も、これに基づいている)によって統合される。そこでは、誰もがいい大学(身分)、いい生活(お金)、いい女を、つまりは序列格差の旨味を求めて争う。そこでの身分やお金は、自分だけに所属する私有権であり、女(or男)でさえ自分だけの独占物である。その意味では、誰もが私権の獲得という目標に収束することによって、集団や社会が秩序化され、統合されてきた、私権統合の時代であったとも言える。


 しかし、'70年、飢えの圧力(=生存闘争の圧力)が消滅するや否や、序列原理(身分制度)は無効となり、それまで力によって抑え込まれてきた人々の意識は、一気に反身分⇒反差別⇒「人権」「福祉」などの観念に収束する。

 生存圧力が克服され、序列原理(力の原理)が無効となった以上、集団や社会は、人々の『共認』(課題や役割や規範を認め合うこと)によって統合される以外にない。だからこそ、それまでの政界や財界に代わって、マスコミが第一権力にのし上がったのであり、'70年を境に、既に時代は序列原理の時代から共認原理の時代へと、大きく転換していたのである。

 若者は先行して仲間収束を強め、共認原理に導かれて仲間第一の空間を形成してきた。いじめが深刻化したのも、仲間絶対の故である(昔は仲間より私権第一であった)。

 しかし、仲間と言っても、その大半は学校(or企業)の中で形成された仲間でしかない。ところが、家庭であれ、学校であれ、(もちろん企業であれ)、私権の獲得という目標に収束することによって統合されてきた集団は、貧困が消滅して私権への収束力が急速に衰弱したことによって、統合力を失い、ガタガタになってきた。今や、それら私権集団は閉塞するばかりであり、それらの集団の中で答えを求めても、そこには何の可能性も残されていない。

 多くの若者が、「家庭は面白くない」「学校は面白くない」「企業はもっと面白くない」と感じており、そこが自分の本当の居場所だと思えなくなってきている。仲間空間さえ、何の課題もない表層的な仲良し空間でしかなく、その中でいくら探しても答えは見つからない。だから、いつも「何か面白いことはないか」と探し求めている。


 そこで、新たな可能性を求めて「集団」の外に、新しい仲間を求めようとする。これが、メル友・旅行・イベントや路上のオープンカフェや人間ウォッチングやパフォーマンス等に向かう、人(みんな)収束の潮流である。

 これは、これまで私権を確保しなければ生きてゆけないという否も応もない私権の強制圧力によって無理やり「集団」に封じ込められてきた人々の、「集団離れ」現象だとも言える。実際、離婚や未婚の増加も、フリーターや引き篭もりの急増も、学生のキャンパス離れも、不正に対する内部告発の激増も、全ては「集団」からの離脱の動きである。

 

 人々は、これまで人生の節目ごとに(まるで一大事業であるかの如くに)「学校に入り」「企業に入り」「家庭に入る」のだと認識させられてきた。しかし、我々はそれらの「集団」に、本当に入ったのだろうか?それは、形だけ、上辺だけのことではないだろうか。本当は、「集団」に入ったのではなく、社会に出ていったのではないだろうか。

 学校であれ、企業であれ、家庭であれ、「集団」に入れば、必ずその「集団」から身分(資格や肩書き)の獲得や利益の獲得という私権課題が強制的に与えられる。従って、子供や若者は自我・私権の主体となるしかない。社会が私権の獲得という目標に収束できていた時は、それでもまだ良かった。しかし、今や私権圧力は衰弱するばかりなので、何をしてももう一つ燃焼できないし、いつも何か物足りない。

 だが、「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。本当は社会に出た(=社会の当事者になりたい)のだとすれば、「集団」を超えた人(みんな)収束の潮流や、『みんなの期待』に応えたいというやりがい志向が、私権の衰弱と同時に生起したのは当然のことであり、それは人々が社会の当事者になろうとする可能性の発現だったということになる。

 

 「集団」から離脱するということは、「集団」の外の世界を(つまり社会を)対象化するということであり、突き詰めれば、社会の当事者になるということに他ならない。

 従って、「集団」から離脱した人々が、先ずは状況(みんなの意識)を掴もうとするのは、当然である。そこで、人々は答えを求めて、必然的に状況(=人々の意識)の探索過程に入ってゆくことになる。これが、答えを求めて人(集団を超えたみんな)に収束する、最先端の意識潮流である。

 現在、人々が心の奥で求めている本当にやりたいことは、みんなの期待に応えて反応充足を感じたいという辺りにある。おそらく次代では「出口が見えない、答えが欲しい」という『みんな期待』に応えることが、人々の一番の活力源になるだろう。

 その為には、答えを求めて集団から離脱した人々が、みんなで共認形成できる場と新しい認識が必要になる。

 

 しかし、出口が見えないということは、これまで人々に一方的に発信し続けてきた学者や芸術家やマスコミなどの専門家たち=発信階級の撒き散らす旧観念が、全く役に立たないということである。現に、社会が全面的な行き詰まりを見せているのに、彼らは未だに何の答えも出せないでいる。

 何故か?彼ら発信階級は表現することでメシを喰っている単なる表現者であり、現実の圧力の真っ只中で生きる人々を外から眺める傍観者に過ぎないからである。現実から逃げて、発信階級の道を選んだ只の傍観者に、現実の真の姿が見える訳がないし、現実に使える認識を生み出せる訳がない。

 それだけではない。実は、古代宗教や近代思想に代表される旧観念の深層には、現実からの逃避ベクトルが深く刻印されている。それは、私権闘争が必然的に生み出す戦争や支配や貧困などによって、現実世界が否定すべき「苦」の世界としか感じられなかったからである。しかも、万人が私権を共認し、誰もが私権の獲得に収束している以上、それによって作り出された現実世界を変革することは不可能である。だから実現不可能視を刻印された知識人たちは、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた充足を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考に嵌り込んでゆき、こうして現実(の自分や人々)を非充足のまま放置して頭の中で代償充足を与えるだけの観念=神・恋愛・自由・個人・人権などの架空観念(現実には存在しない、頭の中だけで作られた観念)しか生み出してこなかった。

 言うまでもなく、誰も実際には(つまり、頭の中だけではなく下半身も含めて)現実を否定することなど出来ない。

 ところが、私権時代の旧観念(宗教や思想)は全て、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。例えば、「我思う(デカルト)」ことそのものに対する懐疑(例えば、全てを疑う自分がおかしいのではないかという疑問)は、針の先ほどの疑問さえ全く生じ得なかったのである。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。  

 

 しかも、現実に背を向けたその狂った観念が、人々の頭の中を支配してしまっている。その結果、人々が何か物を考えようとしても、その観念を足がかりにするしかないので、考えれば考えるほど狂った観念世界に嵌り込んでゆき、まともに物を考えることが出来なくなる。だから、まともな人々は、むしろそんな観念など見向きもしなくなり、物を考えることまで止めて終った。全般的な思考停止である。


 この社会は、人々の共認によって成り立っている。従って、共認形成こそ、社会形成の生命部である。だが、その共認形成が発信階級によって支配され、しかもその中身=観念が狂っているとしたら(そしてその結果、普通の人々は思考停止状態にあるとしたら)、社会は全面閉塞に陥るしかない。

 現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの異常な現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると言っても過言ではない。しかも、その旧観念は、新しい可能性の出口を塞ぎ、人々の活力を奪い取ってゆく。従って、知識人が撒き散らす旧観念こそ、この社会を全面閉塞させた真犯人なのである。

 

 今、求められているのは、旧観念とは逆の、現実直視→実現思考に基づく全く新しい認識である。それは、夫々の仕事に従事しながらこの現実を生きる『みんな』=普通の人々によって生み出される。傍観者ではなく当事者として現実を生きる普通の人々の実感と、それに基づく徹底した事実の追求だけが、現実に使える認識を発掘してゆく。

 ただ、現実(=この時代)は複雑で、自分一人で考えても見極められないし、判断を誤る危険もある。何より、一人で考えても、活力が出てこない。だから、認識の必要に気付いた皆で、現実に使える認識を紡ぎ出してゆく『場』があればいい。それが、認識交流の場である。

 既に、答えを求める『みんな期待』は急速に高まってきており、今や、『発信欠乏が喉元まで出かかっている』段階に来ていると言っても良い。言い換えれば、誰もが答え欠乏⇒発信欠乏に応えてくれるのを待ち望んでいる状態にある。

 おそらく、私権の衰弱と不全の増大の最終局面では、見知らぬ人への警戒心より、答えを求める人(みんな)収束の引力が上回り、街のあちこちで見知らぬ人同士が声をかけ合い、語り合う風景が現出するだろう。

 実際、電車の中でも飲み屋でも、見知らぬ人に声をかけ、新しい認識を語れば、殆どの人が、待ってましたとばかりに、自分の思いを話し出す。しかし、集団を出た人々が行き交い溜まれる場は、基本的には路上しかない。既に、その萌芽は、路上のジベタリアンや、路上パフォーマーの周りの人だかりetc.として現われ始めている。

 路上で出会う見知らぬ人たちは、完全に集団から離脱した社会空間にいる。しかも、今や誰もが答えを求めている。そこでみんなと語り合える共認形成の場を形成することが出来れば、その場は完全に集団を超えた、新しい社会の原初形態、つまり『原初の社会』そのものとなる。しかもそれは、人々が初めて身近なものとして感じられる社会である。

 

 そこで、'03年、るいネットの支援者を中心にして、路上の共認形成の場が生み出された。それが、路上に「みんなのなんで?に答えます」という看板を掲げた『なんでや露店』である。既に100数店が活動中で、街のあちこちに、みんなの反応を活力源にし、みんなの共認を羅針盤にしながら、みんなで共認を形成していく場が、生まれている。

 むろん、原初の社会は、見知らぬ人々との間に形成される、非定型で不確かな関係である。従って、そこで共認充足を体感した人たちは、定常的に集える場=『認識サロン』を求め始める。また、もっと多くの人と交信したいし、もっと役に立つ答えが欲しいという圧力も働き始めるだろう。そのような上昇期待に応えて、『みんな共認』を形成してゆく場が、万人に開かれたインターネット上での『認識形成サイト』である。

 その認識交流の面白さ=引力の秘密は、『みんな期待』に応えて集団外に発信(応合)し、その反応(充足)を得ることへの期待にある。そうして、最初、街のあちこちで形成された『なんでや露店』でのつながりが、『認識サロン=なんでや劇場』を媒介に『認識形成サイト』に収束してゆけば、それは巨大な超集団ネットワークに成長してゆく。

 

 それだけではない。『認識形成の場』に参加するということは、これまで一握りの専門家が独占してきた認識の形成を、普通の人々が担うということであり、彼ら学識者(=傍観者)に代わって社会の生命部である共認形成を自分たちで担ってゆくということに他ならない。

 従って、社会の心臓部となる『認識形成サイト』への参加は、そのまま旧体制に代わる全く新しい社会統合機構(の中核部)を、自分たちでゼロから構築してゆく活動となる。それは、まぎれもなく「この時代を作ってゆく当事者になる」ということであり、だからこそ「一番面白い」活動になる。

 

 まずは、現実を切り開くための新しい概念装置を会得して下さい。(その構築に類グループ30年の歳月が費やされました。)

 と云っても、さしあたって必要なのは、「収束と統合」「不全と解脱」「共認機能」「私権統合」「同類闘争と同類圧力」の5つだけ。それらの概念装置を物理法則を理解するのと同じようにして吸収してしまえば、その新概念に導かれて埋もれていた潜在思念が顕在化してきます。

 あとは、その実感を皆で発信するだけ。次々と新しい認識が紡ぎ出されてゆきます。もちろん、これらの基本概念を使えば、誰でも現実を掴み、次代を読むことができるようになります。

 
答2 新概念の定義集答2 新概念の定義集
答 次代の概念装置『実現論』答 次代の概念装置『実現論』
 
 
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