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    ヘ.支配共認=権力の共認と表層観念の共認    
020601    
   性権力に基づく男女解脱→役割共認であれ、武力→占有権力に基づく私権の共認→身分の共認であれ、支配階級は常に、権力に基づく共認を基底的な社会共認(国家共認)として形成し、その社会共認によって、自らの権力と身分を盤石なものとして確立する。権力に基づく共認が基底的な社会共認となるのは、私権闘争が自分以外は全て敵とする(共認の余地のない)自我と自我の激突であり、従って私権闘争は否も応もない絶対的な力によってしか制圧=止揚できないからである。それ故、私権闘争を制圧・止揚した権力の共認が、秩序形成の上で最基底の社会共認となる。性権力はもっと複雑だが、本質は同じである。占有権力も性権力も共に私権である事には変わりがなく、男と女の私権闘争において占有権力を性権力が上回った以上、当然、性権力の共認が占有権力の共認を凌いで最基底の社会共認となる。(もともと性闘争は、男同士の間の力=占有権力によって止揚されていたが、その占有権力を性権力が上回ると、性闘争も性権力によって止揚される様になる。)何れにしても、まず権力そのものたる「性権=性的商品価値と私的選択権」の共認や「占有権」の共認が強制的に(否応無く)形成され、それを核にして、男女役割の共認や身分の共認が形成されてゆく。この様な私権時代固有の社会共認を、支配共認と呼ぶ。支配共認という言葉には、それが権力の共認に基づいているという意味と、それ以外の認識が全て排除され共認内容がそれ一色に染め上げられて終うという、二重の意味が掛け合わされている。  
020602    
   支配共認はそれに止まらず、更にその権力を正当化する為に、無数の架空観念(幻想観念)を生み出し、それらをも社会共認としてゆく。つまり、肉体を直撃する様な深層の共認である性権力や占有権の共認の上に、本源価値を幻想観念化した本源的架空観念(古代宗教や近代思想)の共認を形成して支配共認の全体が構成されており、真実=深層の権力の共認を架空観念の表層共認がスッポリ包み込んでいる。もっと正確に言うと、深層の権力の共認は否応無しの絶対的共認≒不快な、認めたくない共認であり、そうであるが故に自己正当化できる様に幻想観念化されたのが表層共認である。従って、人々は心地よく酔わせてくれる架空観念に浸って、真実(=権力の共認)をあえて見ようとはしなくなる。  
020603    
   それは、サル・人類が解脱動物だからであり、とりわけ共認を唯一の武器として進化してきた人類は、異性や仲間や集団との共認充足なしには生きられない動物だからである。ところが、性闘争→私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or 脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。  
020604    
   それでも人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。従って、それら古代宗教や近代思想は社会統合上の絶大なる力を獲得し、僧侶や学者は支配階級の一員となる。支配階級から見れば、はじめから現実を変革する力などなく、むしろ私権の核を成す家族や恋愛を美化して人々を共認統合してくれる幻想観念は願ったり適ったりで、自分たちの身分を脅かさない限り有り難く利用すべきものであり、僧侶や学者の方は、私権(身分)を求める存在(深層意識)と現実を捨象した意識(表層観念)は初めから断絶しているので、彼らの主張が認められ、かつ高い身分が保障されるとなれば願ったり適ったりで、両者の思惑はピッタリ一致する。こうして、いったん支配階級の中に組み込まれた後は、それら宗教や思想は、ひたすら現状維持に貢献する支配共認に変質する。  
020605    
   以上からも明らかな様に、古代宗教と近代思想は、全く同じ現実捨象→幻想収束の認識パラダイムの産物であり、従ってその効用も同じである。少なくとも近代思想は、その現実捨象の認識パラダイムにおいて、宗教を一歩も超えていない。だから、近代思想は宗教であり、麻薬である。ただ、近代思想が古代宗教と異なるのは、次の点である。古代宗教が本源価値に立脚しているのに対して、近代思想は、一方では性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)や私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、もう一方では本源価値風の欺瞞観念に立脚している。近代思想が観念に立脚するのは、ムキ出しの自我や性闘争のままでは共認が成立しないからである。人々に共認される為には、醜い現実を捨象し、本源風に美化しなければならない。でなければ、思想として成り立たない。しかも、顕在意識は常に醜い現実の方を捨象し、美化された欺瞞観念に収束する。だから、近代思想はそれが集団破壊を究極の目的とする性的自我に基づくものであることも、その最大の価値たる自由な性=恋愛が規範破りの抜け駆け性闘争であることも、それら一切の真実を捨象し、真の現実から目を背らせる。むしろ、それら真の現実から目を背らせ、それを本源風の欺瞞観念で美化し正当化することによってその醜悪な現実を覆い隠すことこそが、近代思想の唯一の存在理由なのである。従って、その思想(欺瞞観念に収束した顕在意識)と現実(醜い自我や性闘争や私益闘争に収束した肉体存在)とは完全に断絶しており、もし思想と現実(意識と存在)を同じ地平で突き合わせれば、その思想は忽ち瓦解して終う。要するに近代思想は、一から十までその全てが人々を欺いて共認を形成する為の詐欺観念で構成されている。だから近代思想は、その全体が人々をペテンに嵌める為の詐欺思想である。  
     
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