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  序3.市民運動という騙し。民主主義という騙し。  
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  【市民運動という名のペテン】

過去、’60年安保闘争にせよ、’69年全共闘運動にせよ、大衆の願いは実現された例がない。さらに遡れば、明治維新やフランス革命も同様であって、実現されたのは、金貸し(金融勢力)支配の体制だけであり、それらの革命に身を投じた若者たちは、金貸しに乗せられ踊らされてきただけであった。
それも当然で、すでに序2で明らかにしたように、近代社会を動かしているのは金融勢力であって、決して大衆ではないからである。
従って、「市民運動」は、甘言で染められたペテンであると断じざるを得ない。
しかも、この甘言を信じた結果、多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった。これは騙し、それも、社会変革のすべての可能性の芽を摘み取る、皆殺し的な騙しである。
 
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  その後、市民運動は、’70年、貧困の消滅(豊かさの実現)を契機に急速に衰弱していった。つまり、市民運動は、貧困の圧力→私権圧力が強いときにはそれなりに盛り上がり、私権圧力が衰弱するや否や衰退していったわけで、これは、市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていたという証である。
私権欠乏に立脚している限り、どれだけ市民運動を続けても、私権社会が永久に続くだけであって、私権社会から共認社会への転換など、実現するわけがない。

同じことは、それらの運動を導いてきた思想についても言える。
マルクス主義を含む近代思想を生み出したのは、金貸し(金融勢力)である。ところが、市民運動の活動家たちも、同じ近代思想に立脚している。
同じ思想に立脚しながら、社会を変革することなど出来るわけがない。
 
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  あるいは、こうも言える。市民運動の活動家たちは、もっぱら大衆の意識の変革に期待してきた。逆に云えば、彼らは「大衆の意識」以外に何の実現基盤も持ち合わせていなかった。
しかし、現実の大衆は、金貸しが支配する検定教科書とマスコミによって、ほぼ完全に近代思想に染脳されてしまっており、近代思想に代わる新たな思想なしには、大衆の意識が変革されることなどありえない。

本当に社会変革を実現するには、まず、大衆の意識潮流を掴み、そこにどのような実現可能性があるのかを摘出しなければならない。ところが、彼らは、あたかも大衆に期待しているかのようにひたすら大衆に訴えかけていたが、実は、彼らが大衆の意識潮流を深く追求した痕跡はどこにも無い。これでは、本当の所は、大衆にさえ何も期待していなかったのだと言わざるを得ない。要するに、彼らは、自分に都合のいいイデオロギーを大衆に押し付けようとしていただけであり、彼らに在るのは、甘言で染められた自己正当化のイデオロギーだけであった。
 
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  大衆の意識を注視し続けていた私は、45年前、活動家たちに対して、マルクス主義に代わる新理論の必要を提起した。しかし、新理論の構築に取り組もうとした者は、(ごく少数を除いて)殆ど誰もいなかった。そして、次々と、大企業に就職し、あるいは学者になっていった。その後、彼らに残されたのは、社会変革に対する深い不可能視だけである。
それだけを見ると、彼らは本気で社会変革を実現する気などなかったようにも見えるが、むしろ、近代思想に代わる新理論の構築は、不可能に近いほどの超難課題であったということだろう。
 
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  【金貸しの暴挙にお墨付きを与えるだけの議会】

今、改めて、大衆はなぜ現実に社会を動かすことが出来なかったのかを総括すると、その原因は、大きく分けて二つある。

まず一つは、すでに序2で明らかにしたように、古代であれ近代であれ、私権社会は力の原理によって統合されており、力の頂点に立つ武装勢力や金融勢力が、官僚や神官(学者やマスコミ)を支配し、彼らが大衆を法制支配+共認支配することによって、現実世界を動かしているという厳然たる事実である。
従って、この支配構造を突き破るためには、その力の原理をも根底から解体してゆく新しい統合原理の実現基盤が発掘されなければならない。
その実現基盤こそ、’70年貧困の消滅によって実現された、私権原理から共認原理への転換である。
 
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  しかし、それだけでは不十分で、大衆が社会を動かすことが出来なかった原因はもう一つある。
それは、人々の変革期待をそこに収束させ、封印してきた議会と民主主義である。
上記の支配構造において注目すべきは、古代も近代も、支配構造が基本的には同じであることだが、さらに注目すべきは、その中での古代と近代の違いである。
古代と近代の一番大きな違いは、社会の統合力=制覇力が、武力から資力に移行したことだが、もっとも注目すべきことは、それに伴って、議会が登場したことである。

では、学者やマスコミが近代民主社会の象徴or要として称揚して止まない議会というものは、社会統合の仕組み上、どこに位置しているのか?
古代と近代の二つの時代の統合=支配の仕組みを図解化してみれば分かるが、驚くべきことに、議会は王侯・貴族と、まったく同じ位置にくる。
しかし、改めて考えてみれば、近代でも実権は官僚機構と教宣機関(大学とマスコミ)が握っており、議会は、王と同じく、名前だけのお飾りになっていることは周知の事実である。
 
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  市場社会では、本当の権力は金融勢力が握っている。金融勢力が官僚と学者とマスコミを支配し、彼らを通じて大衆を近代思想に染脳した上で、その大衆に選ばせたものが議員である。当然、左も右も金貸しの操り人形ばかりとなる。
したがって、議会とは、金貸しの操り人形たちの演舞場に過ぎない。
したがって、民主主義の建前上「国権の最高機関」たる議会の役割は、当然のことながら、金融勢力の暴走行為にお墨付きを与えることだけとなる。
事実、議会は中央銀行制度をはじめ、第一次・第二次大戦、バブル経済等、すべての主要な局面で、金融勢力の暴走にお墨付きを与えてきただけであった。
 
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  【民主主義と共認原理】

とすれば、いったい民主主義とは何だったのか?

私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」等の架空観念を、近代思想の要と見てきた。
しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。
実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊すべき)」である。
 
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  人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。

共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。
 
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  それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?
 
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  【民主主義は、自我の暴走装置である】

何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
 
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  事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。

その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。逆に言えば、彼らは現実から何も学ばず、従って、現実を改善してゆけるような実現の論理を持ち合わせていないので、何事も批判し要求することしかできない。
だから、彼らは一様に、民主主義を根拠にして人々にも同じように批判し要求するようにそそのかしてきた。その結果が、自我ばかり肥大させ、何も実現できない(=批判と要求しかできない)無能化された人々である。
 
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  要するに、金貸し勢は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をどんどん肥大化させると共に、どんどん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにし、「発言権・議決権」を優先(=批判と要求を優先)させることによって、とことん自我を暴走させると共に、とことん人々を無能化させてきた。

かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊の底なし沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する自我=悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。
 
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  以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。(※自我原理とは:リンク
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)

人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は自我=悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。全てはそこから始まる。
そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。
 
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  ここで改めて、マルクスを含む近代の思想家たちに、その限界と突破口を提示しておこう。
社会を変えるためには、まず、現実世界を動かしている力の構造を解明し、さらにその構造をもっと根底から突き破ってゆけるような、実現基盤を発掘しなければならない。そうして初めて、現実を動かす変革方針を提示することができる。
近代の思想家や彼らを踏襲する学者や評論家やジャーナリストに欠落しているのは、そのような実現の論理である。

すでに提示したように、実現の論理は、彼らとは全く逆の実現基盤と実現方針を発掘した。改めて、それを掲げておこう。

時代はすでに、私権原理から共認原理に転換した。
重要なのは抽象的な「社会変革」ではなく、現実の生産体の変革である。
つまり、もっとも身近な現実の場である職場を共同体に改革してゆくこと、本当の変革はそこから始まる。
 
     
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